週刊外資系新聞

営業マネージャーのための予算必達術

メルマガ 2010年10月10日号

第3章 外資系企業で求められる語学力

第6節 学校で学ぶ英語は本当に無駄なのか?

前々回のメルマガで「英語はできなくても仕事のできる人はいる」と書きました。
英語ができないと、これからは出世できなくなるのではないか?
英語力による社会格差が広がり、固定化するのではないか?(注1)
そうした心配に対して「それは杞憂ですよ」と言いたかったわけです。

日本はそんなに簡単に英語植民地にはなりませんよ。
慌てなさるな、と。

さて今回は、同じ命題から引き出される、さらに過激な議論について考えます。

中学・高校そして大学の教養課程も含めれば、8年間も英語を勉強してそれでも英語を話せない、聞き取れない。
英語の習得がそんなに難しいのならば、その分の努力を別の勉強にあてれば、もっと効率が上がるのではないか?

役に立たない英語教育など、いっそ義務教育から外したほうがいい。(注2)
大体、英語を使わなくてはならない状況など、日本人の日常生活にはないのだから、英語が上手くなるわけがない。

さらに極端に論を進めれば、こうなります。
英語はそれを必要とする一部の「エリート」だけに教え、その代わり、彼ら・彼女らには、徹底した訓練を集中的に行った方がいい。

明治初期のエリートを見よ。
新渡戸稲造も内村鑑三も岡倉覚三(天心)も流麗な英語で本を書き、日本の国威を大いに発揚したではないか?(注3)

英語力をコンピテンシー(仕事の能力)から切り離して、外国語の学習を効用という面からだけ論じると、次のような暴論も出てきます。

「日本人すべてが英語ができなくてはいけない」という考えを、素朴な思い込みとして排すべし。
英語教育は、「できる人」と、「必要な人」だけに限定して、徹底して施すべし。

今は、英語を社内公用語にしようという動きが出るほどに、広く英語力を高めようというムードが広がっていますから、ピンとこないかもしれませんが、この「英語エリート主義」は、実はこの100年の間、現れては消え、消えては復活する論議でした。(注4)

確かに、ビジネスで「使える」レベルの英語力を1クラス40人で行う座学教育だけでは養えません。
それに加えて、本人の自覚的な努力と工夫が必要です。

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教育が悪いのだろうか?
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10年も英語を勉強して道案内もできない。
英語の教育法が悪いのではないか?
英語ほど教育論議が盛り上がる科目もないでしょう。

この問いへの私の答えは、イエスであり、ノーです。

イエスというのは、こういうことです。

受験勉強や大学の教養課程で学んでいる英語は、英語ではないということ。

では、何を勉強しているのかというと、英語という暗号で書かれた文書を日本語で解読する方法です。
英語暗号を高速度で解読し、正確に日本語に解読していく訓練。
特に、試験の問題など、簡単な文章では全員が正答になってしまうので、ワザと修飾関係の入り込んだ文章が出題されます。

「この関係代名詞はこの語を修飾しているから、長ったらしいけどここまでが主語で、ああ、動詞はこんなところにあった。で、構文はtoo+to不定詞だから、意味は…」と日本語で考えながら試験問題を読み解きます。

漢文にレ点をつけて、日本語に読み下すのと同じことを英語でやっているわけです。

おまけに問題文は日本語で書かれているので、「筆者の言いたかったことは次のどれか」などと読んだ途端に、英語頭が日本語頭に戻ってしまいます。

これだけでは、いつまでたっても読めるけれど「話せない・聞き取れない」ままです。

では、そんな教育は無駄なのか?
英語がペラペラ話せるような教育を授けなければ国家百年の計を過つのか?

それについて私の答えはノーです。

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暗愚は不幸である
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文法教育や訳読はやめて、会話だけに集中した授業をすればいいのか?
(今の教育方法はかなりこれに近くなっているらしいです。)

「オーラル(口頭)優先」の語学学習を極端に進めた、その不幸な結果例といえる人物がウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』に出てきます。

その人物とは、僧院で厨房の手伝いをしている修道士サルヴァトーレです。
彼は農奴出身で疫病と飢餓の蔓延する社会の底辺で育ちました。

彼が話す言葉は、耳から覚えた諸国の土地の方言と、僧院で使われるラテン語が混ぜこぜになったもの。主人公の修道士ウィリアムに言わせると、「あらゆる言葉であり、誰の言葉でもない」不思議な言葉です。

サルヴァトーレは、民衆に教育が与えられず、民衆語が話し言葉だけであった時代の無知で蒙昧な民衆の象徴として登場します。

彼の出自は大いに同情を感じさせますが、同時にその暗愚ゆえに、権力に騙され、いいように使われ、あげくは異端として火刑に処せられてしまいます。

また、考えが狭量で、人に憐れみをかけることも知りません。
愚かな民の象徴なのです。

この小説を読んで私はこう思いました。
ああ教育を受けていて良かったと。
暗愚であることは不幸であると。

学校で教わる文法や正書法の知識は、「英会話」にはすぐに役に立たないでしょう。正しい英語にこだわる余り、かえって話せなくなることもあります。

しかし、学校英語の知識は教養の大事な一部です。
そして、教養は暗愚な民衆が自由な人間になるために必要です。
そう、サルヴァトーレにならないために。

授業が「英会話」優先になり、学校の先生をファースト・ネームで、それも適当につけたイングリッシュ・ネームで「ハーイ、ベッキー!」などと呼ぶ光景は、やっぱり「馬鹿っぽいんじゃないの?」と私は思います。

私たちに英語を、たとえそれが、会話の役に立たないものであったとしても、教えてくれた教師たちの熱意を支えていたのは、私たち生徒が無数のサルヴァトーレにならないように、啓蒙の蝋燭の灯火を受け渡そうという意思だったと思います。

問題点は多々あれ、我々が受けてきた英語教育の教養的な側面を否定するのは間違いです。

また、この稿の最初で触れた、英語はエリートだけに徹底教育すべしという考えは、国家の効率だけを考えた、人間不在の暴論です。

学校英語は実社会ではそのまま使えませんが、その後の個人の努力と工夫で、すぐに「使える」実務英語になります。そのへんのことを、これから書くことになった本で探っていきます。

今回もお読みいただき有難うございます。

(注1)“English Divide”という言葉があります。自国語を守ることに血と汗を長年費やしてきたヨーロッパの国々では「そンな馬鹿な!」という議論になりました。
(注2)中学校の英語は2002年までは選択科目でした。それまでは英語は教わらなくても良かったんです。『日本の英語教育』(山田雄一郎・岩波新書・2005年)に詳しく書かれています。
(注3)確かに彼らの英語力は優れています。しかし、彼らが受けた授業は、すべて「お雇い外国人教師」によって、英語で行われていました。
(注4)『英語襲来と日本人』(斎藤兆史・講談社選書メチエ・2001年)



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